make useless struggle
誰か助けて。
わたしのいつもの口癖。
誰か、って誰?
聞かれたって答えられない。
思い浮かぶのはいつだって、想い出の中だけのヒト。
もう、逢えないヒト。
あのヒトだったものにはすぐに逢えるけれど、わたしが求めてるあのヒトには逢えない。
だって、結局はわたしの幻想でしかなかったんだから。
ハンドルを切りすぎた、そう思った時にはもう遅かった。
減速していたからか、驚くほどに僅かな衝撃。
それから、耳障りな金属音。
「また、やっちまったよ」
独りごちながらも、わたしにはまだまだ余裕があった。
サイドブレーキを引き、エンジンを止める。運転手側のドアを開けっ放しにして外へ出た。
春先とはいえ、まだ肌寒い。何か羽織るものを持ってくればよかったと思いつつ。薄闇の中、「相手側」を見た。
「しっかり、証拠残ってるや……」
大きくはないものの、左前方ライトの下方は塗装がはげている。ようするに、わたしが車を擦った跡だ。
一応わたしの車も見る。左胴に細い濃灰の線が走っている。
(これぐらいなら、修正ペンで塗っておきゃいいっしょ)
とはいえ、「相手側」はそれじゃ済まないのは重々承知だけれど。
救いはどちらも白い車だったってこと。
同じ修理でも、ありふれた色の分時間とお金がかからない。
問題なのは、その車の持ち主だった。
助手席に置いたままにしてあった携帯電話を手に取る。今日まで同僚だった剣地に電話をかけた。
「もっしもーし、つるりん? 美紅でーす」
思い切り能天気な私の声に、電話口から非難の声が漏れる。ペンギンの遠吠えみたく――こないだ動物園行くまでわたしも知らなかったんだけど、ペンギンの声ってかなりロマンスグレーで渋いんだよ――低くてよく響く声。だけど今日は、神経質な色を帯びている。
「あはは、ごめーん、まだ仕事中だった?」
言いながらも、わたしは剣地が帰っていないことを、タイムカードを見て知っていた。
それに、いつも定時あがりするわたしの方が、あの会社では少数派だってことも、よくわかってる。
「わたし? わたしは今帰るとこ………………んー、だから送別会とかそういうのはいいって。それより、まーた困ったコトになっちゃったんだな……、これが」
また、事故でもしたのか。面倒くさげに剣地は吐き捨てる。
「ビンゴ! よくわかったねー。しかも、今度はどこだと思う〜? なんと、会社の駐車場なんだ。ばぁっかでしょ、わたし」
電話の向こうが急にしん、と静寂に包まれる。
「あっれー、どーかした?」
言いつつ、受話器を遠ざける。次にくる反応は完全に読めていたので。
案の定、何かを怒鳴ってるだろう言葉が響く。音が割れて、何を言っているのかはよくわからない。
辛うじて聞き取れたのは、そこを動くなって言葉だけ。
とりあえず、来てくれるみたいだ。
剣地が来るまで暇ができる。
とはいえ、わたしは何をするでもなく、「相手側」の車を見た。肌寒かったけれど、車の中で待つ気分にはなれない。
間違いなく、加藤係長の家族車――車種とかよく分からないけれど、いかにも家族みんなで出かけますって感じの、車高が高くて大きなヤツ。
まだ、娘さんが幼稚園に入ったばかりだから、後部座席にはチャイルドシートがついているはずだ。
側には目の大きなうさぎのぬいぐるみや、薄桃色のよだれかけ、黄色のキャップの哺乳瓶なんかが藤のバスケットに入ってて。
車の中は、煙草と缶コーヒー、それからほのかに甘いミルクの匂い。
わたしとあまり変わらない身長。
話すたびに揺れる、白髪交じりの前髪。
目の下の深い皺。
大きくて節のある手のひら。
甲高くて掠れた声。
係長の車の中のことなら、一杯知ってる。
車の中での係長のことなら、何でも知ってる。
他のことはあまり知らない――知ろうともしないわたしだけど。
たとえ他の場所へは行けなくても、車の中では2人きりでいられたから。
「片桐」
あの人とは対照的な重低音で、ハッと我に返る。
気がつくと、隣に剣地が立っていた。「相手側」の車を見て、あからさまに眉を顰めてみせる。
「げ、よりによって加藤の車かよ」
「ん。言っとくけど、別に復讐とかじゃないよ」
「どうだか」
剣地は振り返り、わたしの顔をまじまじと見つめてきた。
「思ったより、元気なのな。さっき電話でも思ったけど」
「ま、事故も4回目だからねー。さすがに慣れるっしょ」
「……んなこと慣れたって仕方ナイだろ。あれ、3回目じゃないのか?」
「ううん、4回目。最初は溝落ち、2回目はコンビニの衝突事故、3回目は電柱にごつん。ね、ほら、4回目だ」
「……自慢するようなことじゃナイだろ」
「お陰サマで冷静も冷静。これからどうやって対応すればいいかとか、もう完璧」
「それでも、謝らなくちゃいけないだろ、今から」
今まで考えないでいたことを言われ、一気に気分が沈む。
あの人にまた会わなければならない。
自業自得とはいえ、それは重すぎた。
俯いたわたしの頬に、ふいに熱いものが触れた。
「痛っ」
見ると、剣地が缶コーヒーを押し付けてきたんだということが分かった。
「会社の自販機で買ってきた。こんな寒いとこにいたら、風邪ひくだろ」
わたしより頭1つ分高い身長が縮められている。
年下のくせに、気ぃ使っちゃって。
思いつつ、プルタブに手をかける。
開いた途端、ほろ苦い匂いが辺りに充満した。白煙が細く昇るのを見て思い浮かべたことは……。自分の馬鹿さ加減を呪うしかない。
「ねえ、剣地」
「なんだ?」
「わたし、コーヒーなんて大嫌いだよ」
言うと、剣地に、それからあのひとの車に背を向ける。
口内には舌を刺す苦味が充溢していた。
Copyright (c) 2003 Sumika Torino All rights reserved.